コンテンツビジネス最強説

ちょっと昔話。
時は1995年、そうインターネット元年といわれる年。

世はYahoo! JAPANのローンチや、リクルートによる人材広告市場を中心したネットビジネスの立ち上げ、CCI、DACの登場による新しい広告ビジネスが産声を上げていた。

その時僕は、富士通のパソコンビジネス部門に所属し、秋葉原を昼夜問わず奔走していた笑。いまから考えてみると、確かに家電販売チャネルについては詳しくもなり、ドメスティックな人脈も増えたが、本当に正しい時間の使い方だったのか?と疑問に思ったりもする。

富士通のパソコンビジネスは「カンタンじゃねーかー」と電通さんが作った高倉健さんのCMと、「来て見てさわって富士通のお店」と千鳥足で登場する「タッチおじさん」のキャラを担いで、本体単独販売ではなく、オールインワン?という英語としては間違ったコンセプトで笑、ディスプレイ、キーボード、マウス、OS、すぐに使えるソフトをプリインストールした商品を世に送り出し、そして日本市場のシェア奪還に向けた動きを始めた。

でもいちばん勢いを担保したのは、7社に分かれていた販売会社を統合し流通力を高めたことと、議論に議論を重ねた生産計画と、その部材調達における徹底したサプライチェーンマネジメント力の2つが勝利をつかんだ源泉だと僕は思っている。

商品力とCMや販促策だけで事業が推進できれば、これほど楽なものはないけど、そんな世の中は甘くない。事業力は、数字力と調整力だということを嫌というほど体感した5年間だった。僕が死ぬ思いで「数連徹(数週間に及ぶ連日の徹夜作業)」で作っていた「使い方ビデオ」や、かわいいおねーさん方を要したイベントが決定打ではない、絶対に…笑
タッチおじさんなるキャラクターを担いで店頭販促、イベント施策、販売店の幹部接待などの担当だったわけなんですが、パソコンの世の中の人に価値を伝えていく中で、セット売りや値段だけでは差別化が持続するわけもなく、競合他社含めブランド力で判断されることも決定的な価値ではなかった。実際、N電(日本電気の業界通称)とのシェアは1、2で常に拮抗することになる。

当時の富士通グループは、niftyを100%傘下にもし、InfoWebという直営のプロバイダーサービスも持っていた。そう、店頭での差別化はこの2つのネット接続サービスの連動が不可欠であった。でも、ネットにつないだとしても、今みたいに多くの情報があるわけでもなく、コンテンツの充実が求められていた…そこで富士通は、なぜかソフトウェア会社の「富士通パレックス」から出されている、電車のDVDやAIの走りな鳥のソフトしか押せるものはなかった…そもそもインターネット関係ないし笑

そんな販促バカになっている僕に朗報があったのは、やめる2年前。ケータイ型端末の担当にワーキンググループにも組み込んでもらい、その商品化に頭を悩ませることになる。あたりまえだけど、あんまり多くのソフトも搭載できないし、ネットにつながることを前提にする商品になる。

そこでコンテンツビジネスの絶対的な重要性に、遅くなりはしたが気づく。
いまからでも遅くないと、端末商売でもなく、回線でもなく、プロバイダーでもなく、富士通はコンテンツビジネスに力を入れるべきだ。コンテンツは絶対になくならない、音楽、映画、ショッピング、掲示板、検索性のある情報コンテンツ、これを仕切ることによりさらに大きなビジネスチャンスがそこにあると、多くの会議で何度となく訴えた。

あまりにも騒ぐからか、なぜかそこで富士通のPCのダイレクト販売サイトの立ち上げも兼務させられることに…いみじくも名付け親は僕…笑。本部長(取締役)に直接プレして「いい名前だね」とお褒めに預かり、いろいろと楽しかったのも記憶に新しい…いや、そーじゃない。やりたいのは、コンテンツビジネスのはずだっ笑。

部門内のいちばん大きな会議上で、えらいさん全部にかみついたとき「お前の言っていることは、富士通のやることじゃない。俺たちはメーカーなんだ」と一蹴されたこともあり「いや、いまにコンテンツ屋さんの冠つけたパソコンが発売されますよ、俺たちの主戦場はパソコンを持っている方々を向いた人へのビジネスが必要なんです」と切り返しても「そうだな。だから有料サポートや修理ビジネス、そして買い替え需要を引き上げようじゃないか」と前向きに切り返される始末…「コンテンツはNIFTYに任せよう。な籾倉」と…。あれから20年たって…実際、コンテンツ屋さんがパソコンではなくスマフォを出してますもんね笑。

「パソコンが富士通以外でも、富士通が運営するコンテンツビジネスは、全メーカーのユーザーが利用できて、いくらでもどこまででもビジネスを広げることができるんです」って…どうやったら説得できたんだろうなぁ…完全にオレて、退職を決めたのもこの会議が一番のキッカケだったかな。

当時の本部長にも、統括部長にも可愛がってもらって…評価もかなりよかったかな。査定面談で「よく頑張ってるな。最速で課長になれるぞ、このまま頑張れよ」って言ってもらっても、なぜか嬉しいと思えなかった…辞め時かなと。でも富士通って会社が好きだったし、いまでもなぜか好きだったり。処世術を教えて頂いた恩義は本当に忘れないし、いまでもメンバーに言い伝えてたりもします。A4ペライチ、ロケットピッチ…これ大事。

そこで、コンテンツビジネスのリーディングカンパニーなリクルート社に拾ってもらうのですが、それはそれで楽しかった。この話はまたどこかで笑。

あれから20年、時代は様変わり。
あの時の情熱を忘れずに、新しいビジネスの構築に奔走する毎日。あの時の「見えたっ!」って程のチカラ強い確信はないけれど、富士通という大きな船に乗らせてもらった時期があることに感謝しつつ、10年、20年続く新しいビジネス、そして世界に通用する偉大なる事業体に育てるべく、突き進んでいきたいなと。

「あ、なんかいけそう、これ面白そう」って思って仕込み始める強さを忘れずに、事業を推し進めていこうと思います。